僕にとってドラえもんは心のよりどころだった。だから新しいドラえもんをまだ受け入れられない

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この記事を書いた人:秘書

お疲れ様です。秘書です。

社長には、子どものころから心に残っている金子みすゞの詩があるらしい。

つらいときに思い出したり、大人になってから読み返したり。

金子みすゞ「大漁」「打ちごま」と私|小学生の頃から何度も救われてきた詩

そんな話を聞いていて、ふと思った。

僕にも、似たようなものがあった。

それがドラえもんだった。

家にはたくさん漫画があった。でも、自分の漫画ではなかった

子どものころの僕にとって、家は少し窮屈な場所だったような気がする。

ものすごく荒れた家庭だったとか、何も与えてもらえなかったとか、そういう話ではない。

漫画もあったし、ゲームもあった。娯楽は普通にあったと思う。

ただ、家の中には今思えばかなり家父長的な空気があった。

親や年上の兄弟の言うことには、基本的に従う。

子どもの僕に選択権がたくさんあったかと言われれば、たぶんなかった。

特にチャンネル権に関しては僕にはほとんど与えられなかった(笑)

上に兄弟がいたので、家にはいろんな漫画があった。

でも、それは兄弟の漫画だった。

読みたければ借りる。

当たり前といえば当たり前なんだけど、「家にある漫画」と「自分の漫画」は少し違う。

そんな中、自分で集め始めたのがドラえもんだった。

僕が集め始めたころには、てんとう虫コミックスの全45巻はすでに発売されていた。

でも本屋に行けば、いつでも1巻から45巻まで全部並んでいるわけじゃない。

途中の巻が抜けていたりする。

売れて、そのまま再入荷していなかったのかもしれない。

だから、ドラえもんを買うためだけに本屋へ行くわけではないんだけど、本屋へ寄ったらドラえもんの棚を覗く。

「あ、これ持ってない」

と思ったら買う。

最初のころは順番なんか気にせず、表紙が気に入ったものから買っていた気がする。

そうやって少しずつ増えて、最終的には45巻全部揃った。

今考えると、初めて自分の意思で集めた漫画だったと思う。

「こんなこといいな、できたらいいな」が本当に詰まっていた

ドラえもんには、本当に「こんなこといいな、できたらいいな」が詰まっていた。

テレビアニメの『ドラえもんのうた』で何度も聞いたこの言葉は、そのまま僕にとってのドラえもんだったんじゃないかな。

子どものころの僕は、秘密道具を見ながらよく空想していた。

もし、どこでもドアがあったら。

もし、タケコプターがあったら。

もし、ほんやくコンニャクがあったら。

今ではスマホに翻訳アプリが入っていて、当時の「未来」に現実が少しずつ追いついている。

でも、「ほんやくコンニャク」なんだよ。

翻訳機じゃない。

こんにゃくを食べたら言葉が通じる。

どういう原理?(笑)

未来人のセンスどうなってんだ、と思う(笑)。

タケコプターもそうだし、どこでもドアもそう。

藤子・F・不二雄先生の秘密道具って、ものすごい未来技術なのに、妙に生活感があって、名前を聞いただけで何をする道具なのか子どもにも分かる。

そこがたまらなく好きだった。

家では自分の思い通りにならないことがあっても、ドラえもんを読んでいる間はいくらでも好きなことを考えられた。

「自分だったらこの道具をどう使うだろう」

そんな空想をしている時間は、完全に僕のものだった。

ドラえもんはポンコツ。でもバカじゃない

僕が好きなドラえもんは、完璧なロボットじゃない。

かなりポンコツ。

ドジだし、感情的になるし、どら焼きには弱いし、ネズミを見れば大騒ぎする。

のび太と一緒になって調子に乗ることだってある。

でも、バカではない。

ここは僕の中では結構大事なこと。

のび太が楽をしようとすれば呆れる。

変な方向へ行こうとすれば止めようとする。

努力した方がいいと分かっているし、何が良くて何が悪いのかという常識もある。

もちろん、結局は一緒になってやらかしたりするんだけど(笑)。

ちゃんと分かっているドラえもんが、欲や感情やドジで失敗する。

だから好きだった。

そして、なんだかんだ最後にはのび太を見捨てない。

僕がドラえもんに感じていた「優しさ」とか「愛」って、たぶんそういうところなんだと思う。

のび太は本当にそんなにダメな奴なのか

のび太もよく言われる。

頭が悪い。

怠け者。

スケベ。

秘密道具を手に入れれば、だいたい私利私欲に使う。

まあ、だいたい合ってる(笑)。

でも僕は、ちょっとだけのび太をかばいたくなる。

だって、あの年齢の子どもの前にドラえもんが現れて、何でもできそうな秘密道具を出してくれるんだよ。

そりゃ使うだろ。

そりゃ欲も出る。

僕だって絶対使う。

きっと多くの人がそうなんじゃないかなと思う。

人間なんて、そんなに立派じゃない。

でも、のび太の本質はそこだけじゃないと思っている。

ドラえもんの話の中には、ごく普通のダメな少年が、ときどき他人のために動いたり、誰かを思いやったりする場面がちゃんとある。

成長して大人になっていく中で、子どものころはむき出しだった欲や幼さが少しずつ削られていく。

あるいは、大人として隠せるようになっていく(笑)。

その中に残る優しい部分を、しずちゃんも見ていたんじゃないかと思う。

『のび太の結婚前夜』で描かれる未来につながっていくのも、僕には不思議なことじゃない。

しずちゃんのお父さんがマリッジブルーなしずちゃんを説得したのもわかる。

ノビスケが生まれた後の未来ののび太を見ると、普通に常識のあるお父さんになっている。

当たり前だけど、いつまでも小学生のままではない。

覚えているのは、やっぱり優しい話だった

45巻もあるから、もちろん全部の話を細かく覚えているわけではない。

でも、今でも浮かんでくる印象に残ってる話がある。

ノンちゃんが登場する『赤いくつの女の子』。

『おばあちゃんのおもいで』。

『台風のフー子』。

『さらばキー坊』。

『ドラえもんに休日を!!』。

ほかにもあるだろうけど、ぱっと思いつくのはこれくらい。

振り返ってみると、秘密道具でドタバタする話だけじゃなくて、人を大切にしたり、別れたり、相手のことを思ったりする話が強く残っている。

子どものころの僕は、そういうところにも惹かれていたのかもしれない。

夜、布団に入ってドラえもんを読むことも多かった。

電気スタンドをつけて、何度も読んだ巻をまた読む。

眠くなったらスタンドを消して、そのまま寝る。

今思えば、ドラえもんが心のよりどころだったというのは、大げさな何かではなくて、たぶんこういう時間のことも含めてなんだと思う。

いつでもそこにあった。

大人になったら、別のところまで面白くなった

子どものころは、とにかく秘密道具が楽しかった。

でも大人になって読み返すと、別のところが見えてくる。

有名なところだと、「どくさいスイッチ」なんて、よく考えたら相当怖い。

『人間製造機』も、「未来の倫理観どうなってんだよ」と言いたくなる(笑)。

子ども向け漫画なのに、ブラックなものが普通にちりばめられている。

便利な道具を手に入れた人間が欲を出して、結局ろくなことにならない話も多い。

子どものころには気づかなかった藤子先生の皮肉や人間観が、大人になってから見えてくる。

だからドラえもんは、大人になった今でもきっちり刺さる。

同じようにドラえもんを読んできた人と、

「いや、あの道具ヤバいだろ」

なんて話をするのも楽しい。

子どものころとは違う読み方ができるのに、同じ漫画を読んでいる。

そこもすごい作品だと思う。

やっぱり好きなのは原作だった

僕が生まれたころにはもうテレビでドラえもんをやっていたので、たぶん原作より先にアニメのドラえもんに触れている。

春休みや冬休みには、ドラえもんの特番を楽しみにしていた記憶もある。

だから大山のぶ代さんのドラえもんは、「好きになった」というより、最初からそこにいた。

そのあと漫画を読むようになって、藤子・F・不二雄先生の描くドラえもんがどんどん好きになった。

だから僕にとって、一番好きなのは原作だ。

関数が後の方の作品には、子どもの僕にも「いつもの藤子先生の絵とちょっと違うな」と感じるものがあった。
当時は、体調のこともあって制作の仕方が変わったのかな、なんて勝手に思っていた。実際の制作体制については、僕には分からない。

同じドラえもんなのに、それが少し寂しかった記憶がある。

同じキャラクターなら何でもよかったわけじゃない。

僕は藤子先生が描くドラえもんが好きだった。

だから、新しいドラえもんを受け入れられなかった

2005年、テレビアニメのドラえもんは声優陣を含めて大きくリニューアルされた。

当時の僕は、かなり強い拒否反応があった。

まず声が違う。

これはものすごく大きかった。

生まれたころから聞いていた声が、突然全部変わったんだから、すぐに受け入れろと言われても無理だった。

だから当時はほとんど見られなかった。

それからずいぶん時間が経った。

さすがにもう見てみようかな、と思ったことも何度かある。

今もほとんど見ていないので、新しいドラえもんについて詳しく語れるほどではない。

それでも少し見てみると、声以上に引っかかるものがあった。

キャラクターの違い。

新しいドラえもんにも、のび太を心配したり、間違った方向へ行けば止めようとしたりする芯の部分は当然あると思う。

そこがなくなれば、そもそもドラえもんという話が成立しない。

でも僕には、どうしても原作のドラえもんには感じなかった種類の「バカさ」が増えたように見えてしまう。

ドラえもんはポンコツで、ドジで、感情的になる。

でも僕の中のドラえもんは、頭の悪いキャラクターではない。

そこがどうしても重ならなかった。

これは、新しいドラえもんが間違っているという話ではない。

そもそも僕は、今のアニメを十分に見て評価できる立場でもない。

ただ、原作45巻を何度も読んで、自分の中に長い時間をかけて作ってきた「ドラえもん像」とは、どうしても違って感じてしまった。

たぶん、それだけなのだと思う。

今の子どもには、今のドラえもんがいる

だからといって、新しいドラえもんを否定したいとは思わない。

声優が変わっても、今でもアニメがあって、映画も作られている。

ドラえもんという作品がずっと続いている。

それは何より嬉しい。

同世代と話せば、

「やっぱり昔のドラえもんがよかったよね」

なんて話にもなる。

でも、今の子どもたちから見れば、大山のぶ代さんのドラえもんなんて「昔のドラえもん」なのだ。

僕にとって大山ドラが、物心ついたころからそこにいたドラえもんだったように、今の子どもたちには今のドラえもんがいる。

それでいいと思う。

その子たちにとってはそれが「ドラえもん」だから。

僕にとってのドラえもんとは

今でも原作を開けば、普通に読んでしまう。

大人になったから気づくこともある。

「未来人、何考えてこの道具作ったんだ」

とツッコミながら読むのも楽しい。

でも同時に、ページをめくっていると、ときどき布団の中で電気スタンドをつけて読んでいたころの自分が戻ってくる。

本屋で持っていない巻を見つけたときのこと。

秘密道具を見ながら、あれこれ空想していたこと。

ドラえもんとのび太を見て笑っていたこと。

家の中で窮屈さを感じていた子どもの僕が、ドラえもんの中では好きなだけ「こんなこといいな」を考えていたこと。

たぶん今の僕にとってドラえもんは、子どものころの自分につながるタイムマシンみたいなものなのだと思う。

……ちょっとウザい。

でも、ドラえもんの話だから、これくらいは許してほしい。

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